サーチワードに特化

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    2000年に入って・・・ 当時粗利構成比で半分以上を占めていたレンタルサーバー+WEB制作の事業環境が急変、競争が激化し 価格戦がはじまった。

    一方でサーチワードバナーは好調。お客様からの評価が高く100%近い継続率で、、収益も座布団型で積み上がるようになってきていた。

    そして3月。レンタルサーバー+WEB制作事業から撤退しすべてのリソースをサーチワードに集中、サーチワードに特化した「キーワード広告代理店」として勝負にでることを決断する。

    ※創業来 当社は数度「別の道を選んでいたら今はなかった」岐路にたったがこのときが最初。目先の粗利重視で制作メーンの業態を続けていたら その後に訪れるチャンスを掴めなかったと思う。

    6月 溜池山王オフィスに移転(間借りではない初の単独オフィス)。

    同時に社名をアスパイアからアイレップに変更した。

    社名のアイレップには「I=わたしの REP=代理人」、 お客様側にたち お客様にとっての代理人になるという思いをこめた。

    ※社名変更した理由はaspire.co.jp がタッチの差でとられていたからという説もあるw

    ※今回(2012年2月)、溜池山王(山王パークタワービル)に移転し同時にロゴを変更。溜池山王から新しい何かがはじまる、、不思議な縁を感じる。。


    ・・・


    当時サーチワードの販売に力をいれていた代理店は 日広さん(現GMO NIKKO社)、インターネット広告社さん(現ネットフロンティア社)などがあり 他の大手ネット代理店さんもワンオブゼムとして扱っていたが  組織・オペレーションをサーチワードバナー販売に最適化し 売上のほぼ100%がサーチワードなのは当社だけだったと思う。


    まず社員が「売れそうな(つまり検索ボリュームが一定以上ありそうな)キーワード」を探す。
    日経新聞や日経産業新聞 その他雑誌をながめ キーワードをチョイス。


    Yahooさんに各キーワードの在庫(検索ボリューム)を問い合わせ。一定以上のPVのあるキーワードをさらにチョイス。


    そのキーワードに関心をもちそうな広告主候補をWEBで検索しリストアップ(これをFindjobで探したフリーの方にアウトソース リストアップ先のデータをネットでやりとり)。



    テレフォンアポインターがマニュアルにそってコールし関心をもった広告主にFAXで説明資料を送る。



    営業マンが追っかけコールし 興味ありそうであれば訪問し成約。


    上記プロセスを高速かつスムースにまわすことを徹底的に追求した。


    サーチワードバナーの販売だけでいつのまにか Yahoo!Japan主要広告会社(売上TOP10の広告代理店)の常連になるようになった。

    「サーチワードしか売らない変な代理店がある」という噂が業界に流れ始めたのはこの時期。

    ※ちなみに、この頃はまだSEMという概念すらなく サーチが巨大な広告市場を創ることを誰も予測していなかったわけで、、業界的にマニアック?な存在でしかなかった。。

    結局サーチワード特化は功を奏し 2000年9月期は 売上1億円で前年の4倍。

    さらにここからアイレップの「第一次成長期」(5年連続で前年比2倍以上の成長)がはじまる。。







     


    サーチワードバナー

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      99年 アフィリエイトが頓挫し ネット販促支援事業の機会探しは続いていた。


      懸賞サイトの代理店をやる中で ネットを活用した集客・販促に関するニーズの強さを実感していた。


      そもそもホームページがまだない会社も当時多かったので ネット販促支援事業の第二弾としてレンタルサーバー+WEB制作事業をスタートした。


      99年2月から 四谷三丁目(新宿舟町)に移転し アレストさん(現 内藤社長のファインドスター社)とオフィスをシェア、アルバイト社員を初めて採用、さらに続々と採用を増やし攻めに出た。

      ※芸人のコラーゲン配合マンがテレアポで入社したのもこの頃。芸術的なトークでよくアポをとり活躍してくれた。


      集客手法としてネット広告商品も一から勉強してみようと考えた。


      向かった先はまだ創業まもないCCIさんとDACさん。両社ともまだオフィスががらーんとしていたこと覚えている。


      いろいろネット広告商品を媒体資料を使ってご説明いただいたが・・
      「Run of property 」 「Run of category 」・・・ いまひとつぴんとこない。


      しかし・・めくられる媒体資料の中で 「止まって見えた」1ページがあった。



      商品名  “サーチワードバナー” 


      今日のアイレップにつながる 運命の瞬間だった。。。

      ・・・


      キーワード検索に連動し検索結果画面の最上部にバナーを掲載する。


      3ワードのPV合計が1万以内の場合 1社がエクスクルーシブ掲載できる。(1万以上の場合はPV買い)
      ※and検索などは対象外。 単一ワードのみ販売対象で キーワードによってはパッケージ化されていた(例:「転職」「就職」などの就職パッケージ)。

      1PV=12円。

      ユーザーが広告を情報としてうけとることができる。ユーザーと広告主のWinWinが成立する。


      唯一インターネットらしいインタラクティブな広告商品だと感じた。


      本格的なネット時代が到来すれば 自社商品に関する普通名詞の検索結果最上部をおさえることの価値は間違いなくあがる。これはおもろい!!


      ひとり興奮して帰社し さっそく売れそうなキーワードをさがしはじめた。


      派遣 人材派遣 派遣会社
      介護施設
      電話加入権
      自動車教習所 合宿免許・・・


      アポがとれる とれる。契約も続々ととれていった。そして、、、何より効果が高くお客様から喜ばれた。


      ただし このサーチワードバナー 上記のとおりキーワードのPVによるが基本月額12万円×3か月契約。


      マージン率が15%だから 月額粗利は1.8万円。損益分岐を越えるのは随分先になりそうだった。


      他のネット広告商品をクロスセルすればよかったのかもしれないが 自分がぴんとこない商品を売るのは何か違う気がした。第一それでは他のネット広告代理店と同じで特徴がないしわくわくしない。お客様からの評価が高く継続率も高いサーチワードにまずは特化し 考えうるキーワードを売りつくそうと考えた。

      「我々はネット広告代理店になるつもりはない。日本一のキーワード広告(サーチワード)代理店になる!」
      当時よく社内で吠えていた。


      ・・・


      時はビットバレーが盛り上がり 新興市場(ナスダックジャパンやマザーズ)の開設で大多数のネットベンチャーがIPOを目指し沸き立っていたころ。

      私も社内のホワイトボードに「2005年ナスダックジャパン(後にヘラクレス→Jasdaqと統合)上場」と大きく書いた。

      サーチワード販売には手ごたえを感じていたし レンタルサーバー+WEB制作事業が軌道に乗り粗利は確保できていたが まだまだ零細企業の域をでていなかった頃。当時入社したアルバイト社員からは「この人頭大丈夫か」と思われていたようだw

      勿論、、2005年上場に何の根拠もなかった。

      ※結果として1年遅れではあるが2006年にヘラクレス市場に上場。よく「目標は紙に書け」と言うが私に関しては当時書いて掲げた目標はほぼ現実になっている・・


      99年9月期 第2期は売上2500万円 若干黒字を計上。社員も正社員が2名 アルバイト7名ほどの所帯となっていた。


      そして翌年・・・ 早くも当社は岐路に立つことになる。。。(続く)


       

       

       


       


      アフィリエイトとビットバレー

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        98年、2期目に入って引き続き新規事業の模索を続けていたある日。


        「週刊Netage」というメルマガを発見した。


        ネットエイジの西川さんが海外のネットビジネスを紹介するメルマガ。


        その中で アフィリエイトプロバイダー(バリューコマースさんやファンコミュニケーションズさんらが提供しているアフィリエイトのバックエンド)の仕組みを知る。


        成功報酬型の広告モデルを 広告主側と媒体側を仲介する形で実現するシステム。まさに広告主・媒体のWinWin。


        もし国内でスタートすれば一気に広がることは間違いない。私は興奮していてもたってもいられなくなった。


        早速西川さんにメールしアポをとり あの「伝説の」襖があるネットエイジさん松檮オフィスを訪問した。


        西川さんとは即 意気投合し アフィリエイトのサービスを共同でつくろうということになる。


        あのころのネットエイジさんはまさに梁山泊、松檮オフィスには当時まだ東大生だったミクシィの笠原さんら後にネット業界で活躍する若い方が多数出入りしていた。


        アフィリエイトの開発プロジェクトは学生のプログラマーをアサインし 松山大河さんがネットエイジ側担当となってプロジェクトスタート。


        サービス名は「リンクエージェント」に決まった。いくつかクライアント候補に感触を聞きにお伺いしたがみな導入の意向をしめしていただいた。


        しかし・・年明けて99年。このプロジェクトは諸事情により早々に頓挫してしまう。


        今思えば開発規模・資金面など含めすべてに私の見立てが甘すぎた。。。



        しばらくしてネットエイジさんは車の見積サイトをソフトバンクに売却し 一躍有名になる。


        さらにあの西川さんの「ビターバレー宣言」からビットバレーがネットエイジさんを中心にムーブメントとなっていく。

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        ちなみに、、、ネットエイジさんは 2006年 当社と同じ年に たしか当社より少し早く上場されたが 主幹事は同じ イートレード証券(現SBI証券)だった。

        その後 社長は西川さんから小池さん 金子さんとバトンタッチされ 社名もngi Group と変え、、つい先日当社と同様DAC社のTOBをうけ 同じグループの兄弟会社となった。

        なんというか 不思議な縁だ。

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        ビットバレーの喧噪の中、アフィリエイトが頓挫し 私はインターネットを活用した販促支援事業の次をさらに模索していた。


        そして・・ある商品と運命的な出会いをすることになる。。。 (続く)

         

         

         


        創業

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          97年11月17日。MRプロダクツ平社長のご厚意で1坪程度のスペースを間借りさせていただき西新宿の厳島ビルで株式会社アスパイア(後にアイレップに社名変更)創業。


          当時のネット系ベンチャーは 「食いぶちを稼ぎながら」本来やりたいことを模索したり、当初のビジネスモデルを変えて成長していくパターンが多かった。


          サイバーさんは創業時「ネットの大塚商会」がコンセプトで 様々なネット商材を営業する会社だった。


          オプトさんは FAXDM セプテーニさんは 採用コンサルでスタートしている。


          当社も「インターネットを活用した販売促進支援」「特定分野のマッチング」程度の事業領域設定でスタートした。(SEMの影も形もなかった・・・)

          まずは当面の食いぶちを稼ぐため 雑誌アントレへの告知の反響から 長野の人材派遣会社綜合スタッフ社からコンサルティング契約のご発注をいただいた。当社にとっては記念すべきはじめてのクライアントとなった。

          ※神保社長には こちらがコンサルすべきところが 逆に様々な助言をいただき・・・フィーを頂戴しながら様々な勉強をさせていただきました。

          土日には某社のテレマーケティングを業務請負した。(この仕事を受けたことで2〜3年土日休みはなかった)


          本来やりたかったインターネットを活用した販売促進支援事業に関してはまずは情報収集からはじめた。

          あるときファインドスター内藤社長に声をかけてもらい向かった先は メンバーズさん。剣持社長にはじめてお会いしたのはそのとき。


          そこで懸賞サイトを使った販促プランの説明をうける。参画クライアントがプレゼントを提供し 応募のためのアンケートをとり 情報提供の同意を得た見込み客を集めるという仕組み。


          まずは勉強。この商品を売ってみよう。
          本来やりたかったネットを活用した販促事業の第一弾としてメンバーズさんプロデュース「プレゼントビッグバン」(だったかな?)の代理店となった。



          成果がでたところ でなかったところ はっきりわかれはしたがこの商品を売っていく中で ネットでの集客に関心の高い顧客と一定のリレーションをもてたことが後につながった。


          初年度はコンサル案件と懸賞サイト代理店業務で
          1998年9月期(初年度)売上1500万円。若干の赤字を計上した。

          (なお当社は1期目のみ若干の赤字で2期から14期に至るまですべて黒字を計上している。また減収はリーマンショックのときの1度だけ、減益はそのとき含め確か2度だけ あとはすべて増収・増益。経営者としてのささやかな誇りだ)


          アイレップ溜池山王に移転しました

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            先週世間をさわがせたようですがw 本日より溜池山王に移転し営業開始しました。

            お花などお祝いいただいた皆様 誠にありがとうございます。
            たるむことなく社業に邁進しますので引き続きご指導のほどよろしくお願いいたします。

            当社は・・・97年に西新宿でスタート

            99年に四谷三丁目(新宿舟町)

            2000年に溜池山王(米国大使館のすぐ近く)

            2002年に南青山(avex横の海老屋ビル)

            2003年に 新宿南口

            2005年に青山東急ビル(現青山ファーストビル)

            そして2012年山王パークタワービル

            今回のオフィスは7番目になります。

            昔 ネット広告代理店を「渋谷さん」(サイバーさん) 「赤坂さん」(オプトさん) 「新宿さん」(セプテーニさん)とよんだ時代がありましたが 当社は青山東急ビルに移転するまであまりに短期間にあちこち移転するため地名で呼ばれた記憶はありませんw

            創業してしばらくは 「2年以内で2倍の広さのオフィスに引っ越す」ことがひとつの目標?になっていました。

            青山東急ビルに移ってからは引っ越すのではなくビル内増床で 2007年には確か2フロアになっていたので「2年以内2倍」の目標は創業10年はクリアしてきたことになります。

             ※こんなコンテンツを発見しました 
              http://www.oj-net.co.jp/fm/venture/irep/01.html
              http://www.oj-net.co.jp/fm/venture/irep/02.html 

            以後は分母が大きくなったためさすがに2年以内2倍は断念?しましたが 最終的に青山東急ビル(現青山ファーストビル)はグループ全体で4フロア(プラス大阪・福岡に拠点)になりました。

            そして今回 手狭になり、また1フロアにしてコミュニケーション効率をあげるため(別の理由ではなく) 山王パークタワービルに移転したわけです。


            溜池山王は3番目のオフィスで経験済みですが 個人的に思い出多い場所です。

            1番目・2番目のオフィスは間借りで 3番目の溜池オフィスが初の自社単独オフィスでした。

            創業5年くらいは毎週土日出社してましたが 溜池オフィスにはよく土日娘を連れていき 私が仕事する横で本読ませてました。帰りにアイスチョコモナカ買って2人で食べながら帰ったものです。。。(遠い目)

            階段が暗く また急で・・・ オフィス扉には 「アイレップ」とワープロ打ちした紙をはりつけてました。グーグルのIさんがはじめて当社を訪問したのがこのオフィス。Iさんの顔には「この会社大丈夫か?」と書かれていましたw グーグルさんとのお取引がはじまったのは溜池オフィスからです。

            911の同時多発テロのときも溜池オフィス。米国大使館近くの警備が厳しくなり 土日パーカー着て出社したら 職質されたのはいい思い出w

            とまあ なんか昔を懐かしんでしまいました。

            今回のオフィスは あまり外観にこだわらない シンプルだった過去の当社オフィスと比較するとダントツにお洒落で しかし決して「バブリー」ではないと思います。社員の働きやすさを意識したスマートで アクセントもあるオフィスになったのではないかと。

            移転プロジェクトに携わった社員のみなさん本当にご苦労さま。誰がなんといおうと俺はいいと思うよ。

            もちろん 分不相応といわれないよう全社員一丸となって頑張ります。




            今日からロゴも正式に変わり CIを一新しました。

            新スローガン a cycle of success, with us

            に当社の想いが込められています。


            ますます進化する新生アイレップを引き続きよろしくお願いいたします!


















            起業に至るまで 3

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              1996年9月末で無事RJCを円満退職。


              RJCは本当にいい会社だったし 人材紹介業はやりがいのある事業だった。
              だからこそあえてやめて起業する以上 別の領域で勝負したかった。


              準備が十分でなく退職したこともあり、時間の区切りをもうけて 様々な業種のアルバイトや業務受託、ベンチャー企業の手伝いなどをして視野を広げ 事業の構想を練り、会社設立を目指すことにした。


              とはいえ 世間から見ると要は 「30越えたフリーター」である。容赦なく現実は襲いかかってきた。


              固定費を下げるべく大森から引っ越そうと新居をあっちこっち探したが審査で「保証人をつけてください」と言われること数度。さすがに30こえて 親や親戚に家賃の保証人は頼めない。


              嫁には泣かれた。「く、悔しいやないか!!」


              なんとか埼玉 蕨で物件をみつけて引っ越したら初日から下の階の住人に怒鳴りこまれた。音が響くらしい。


              昼飯はなか卯でうどんのみ。たまに食べる親子丼がささやかな贅沢だった。
              ※このころをひきずっていて、、 いまだになか卯の親子丼が大好きですw


              まずはある会社の新規事業企画に携わってみることにしたが・・・
              諸事情でプロジェクト自体が途中で終了。


              某ネットベンチャーを手伝いかけたが・・・
              社長と喧嘩別れ。


              生活費稼ぐべくはじめた某通信会社のテレアポアルバイトでは 白地に「秒殺」と朱書した鉢巻をした20歳のヤンキー風女性上司に「きみぃ! はやくアポとって!」とつめられ、、、 さすがにフリーターの悲哀をかみ締めたw


              RJCの2年後輩で私より2年早く起業していた 現ファインドスターの内藤社長が見かねていろいろ仕事をふってくれて助けてくれた。彼は本当に面倒見がよくて知り合いが起業すると何かと相談にのっていた。仕事だけでなく様々なビジネスネタを教えてもらい刺激してくれた。
              (近すぎて面と向かっては言えないが彼には本当に感謝しているし 尊敬しています)


              今思えばやはり起業する以上 ある程度事業プランを固めて 切れ目なくスタートする方がよかったと思うし 私のようなやり方は起業家予備軍のみなさんにおススメはしない。


              ただ、「何をやるかみつかったら現職を辞めて起業しよう」と言ってずるずる30代、40代・・・になり 結局 夢を夢のままで終わらせている人もいれば、在職中からせっせと起業準備にいそしえみ 退職時期などで会社と衝突する人もいる。


              私は古いかもしれないが 「一宿一飯の恩義」を大切にしている。
              一方 人生一度きり。誰になんと言われようとやるときはやる。


              「ミッションの切れ目」という会社に迷惑がかからない退職時期を選んでまずはやめるという形をとったこと 自分らしいやり方だったと思っている。
              その結果 古巣のみなさんには起業後も応援してもらえたしいまだにいいおつきあいをさせていただいている。


              ・・・

              そんなこんなで約1年。おぼろげながら方向が見えてきた。

              人材紹介業の経験から知ったマッチングの価値。求める人に求められる情報を届けることが価値となり事業機会が生じる。


              そしていよいよ本格的に普及するインターネット。


              インターネットを活用した販売促進や なんらかのマッチング事業を行おう。あとは走りながら考えればいい。

              社名は・・・大志を抱く ASPIRE アスパイア に決めた。


              雑誌アントレに当時 無料で起業家が告知をだせるページがあり そこに 「オフィス間借りさせていただける方いませんか?」「一緒に刺激しあいましょう」などと書き込んだ。


              すると西新宿で研修ビジネスを営むMRプロダクツの平社長よりご連絡をいただき間借りさせていただくことになった。


              賃料は無料(共益費のみ)。机も貸していただき 私が購入したのは確か電話機と椅子、パソコンのみ。平社長には本当によくしていただいた。


              そのオフィスにはMRプロダクツ社と 創業期にお世話になることになる中村会計事務所さんがすでに入居しており当社含め3社が入居することになる。


              定款の作成から 資本金の振込処理など司法書士には一切任せず私ひとりでやった。


              RJC退職から1年と数ヶ月 ようやく会社設立準備が整った。。。


              ・・・


              以上 起業に至るまでの 経緯でした。

              次回からいよいよ ようやくアイレップ創業(最初の社名はアスパイア)の歴史スタートです。(すでに息切れ気味ですがw)


              起業に至るまで 2

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                 念願の営業に配属された以上 結果をださないと男がすたる。「血尿がでるまで」と言った以上 言い訳は許されない。


                早速 受話器に左手をガムテープでしばりつけて1日100本のテレアポをみずからに課した。
                ※注 今のアイレップではまったくこうした営業手法をとっていないのでくれぐれも誤解なきようお願いします (笑)


                早く営業力をつけたかったから訪問先に上司もあまり連れて行かず自分で完結することにこだわった。


                2年目からは支社に異動したが 個人の数字をクリアするのは当然で支社全体の数字が自分の目標という意識をもつようにした。


                先輩 後輩をどう刺激し支社目標達成に近づけるかを常に考えた。


                そして・・・ 営業として4年間で クオーターMVPや 新規営業絶対額年間TOPなどの結果をだし、新卒入社としては異例の早さでMgrに昇進(丸4年)した。


                自分がおかれた環境の損得計算をするのではなく その状況の中でベストを尽くすと結果(昇進)がかえってきた。そして「新規開拓営業力」に関しては絶対の自信をもつことができた。


                頑張れた理由として同期のライバルたちがいたことが大きい。RJCでは同期に本当に恵まれた。


                単に仲がいいだけではなく 営業数字で激しくしのぎを削り、RJCの将来を熱く語りあえた。


                同期に限らず先輩・後輩にも優秀で尊敬できる人が多かった。


                RJCで切磋琢磨した同期や同僚はまさに戦友。人生の宝だ。


                ・・・


                この時期 プライベートでも結婚し RJC時代の前半(89年〜93年ごろまで)は本当に充実した日々だったと思う。


                ところが・・


                当時のRJCは前金で紹介料を頂戴し それから約束したスペックの職種の人を決めるモデルだった。


                私がMgrに昇進したころRJCの人材紹介事業の改革が進行し 前金制から成功報酬制にかわった。
                成功報酬に変わったことを含む様々な改革でRJCはその後大きく飛躍することになるがこの時期は混乱し、血が流れた。

                また、前金制では先に相応のフィーをとる以上 決裁者にアポをとって 自分を 会社を 売り込んで信頼される営業力が必要になるが 成功報酬制では新規営業のハードルは下がり 既存顧客とのリレーション構築力がより重要になった。

                既得権がひっぱがされ 
                優秀であることの基準が変わり
                価値観も風土も変わった。
                私がせっせと身につけた新規開拓営業力は不要になった。


                この時期私は自分を見失った。


                ほどなくIT業界担当Mgrからエグゼクティブ層紹介部門 さらに まったく門外漢であるシステム部で新情報システム構築プロジェクトの責任者に任命されるなど紆余曲折あり、、私のRJC時代の後半は苦悩の日々となった。



                しかし今思えば 自分が身につけてきたスキルが必要なくなったり 優秀であることの基準が変わるなどの変革をまっただ中で経験できたことは 貴重だった。


                変化の激しい時代、人は自分のスキルを何度かリセットする必要に迫られる。
                過去の成功体験や培ったスキルをあっさり投げ出さなくてはいけない時が連続的に訪れる。
                また事業モデルがニーズにあわなくなれば血が流れても変革を推進しなくてはならない。


                このときの経験が私の仕事観をつくり 起業後に大きく役だつことになる。


                またシステム部門でスタッフを経験したことで経営における視野も広がったし、普及しはじめていたインターネットに関心をもてたことが 今のアイレップの事業につながったともいえる。


                実は「充実の前半」より「苦悩の後半」により多くのことを学んだと思う。


                ・・・


                システム構築プロジェクトの責任者になったときがすでに29歳。どう楽観的に見積もっても2年程度はかかりそうな大規模プロジェクトだった。


                しかも営業畑で システムなどちんぷんかんぷん。
                大型のコピー機をみて「これがAS400か」とつぶやいた男がシステム責任者。


                配属理由は「高山は論理的だから」。うーむ。


                決まった以上仕方がない、やるしかない。


                30までに起業と考えていたが 責任重大なこのプロジェクトを途中で投げ出すことはできない。


                「自分のミッションを完遂し かつ自分が抜けても大丈夫な状況をつくってから次に行く」ことが私のルール。


                多くのことを学ばせてもらった 愛するRJCに迷惑はかけられない。



                それからは勝手がわからない中、まさに手探りの2年間。優秀なメンバーに恵まれ、助けられて、、96年5月ようやく新システムはカットーバーしようとしていた。



                「安定稼働したらやめよう。」

                人事異動のタイミングは4月と10月。起業して何をはじめるかはまだ決まっていなかったが、10月まで在籍すると新たなミッションが与えられる可能性があり、、そうなるとまた中途半端ではやめられなくなる。


                すでに31歳。起業するにはこのタイミングしかないと思った。

                 

                嫁は 背中をおしてくれた。


                「ずっと前から言ってた夢やろ。やりーな。そのかわり家にはきっちりお金いれてや。あ、失敗したら歩合給の営業でもやることね。よろしく〜」


                まー信じてくれていた?ということだろう。


                よし、まず退路を断とう。


                RJCで鍛えた営業力には自信があり いざとなればそれこそ歩合給の営業でも家族を食わしてはいける。。。


                1996年6月


                新システム構築プロジェクトを責任者として推進、無事カットーバー・安定稼働したことを見届けた私は上司に退職届をだした。

                続く


                起業に至るまで 1

                0

                  アイレップ創業の歴史、どこから書こうか、書きだしに迷って時間がたってしまいましたが 結局創業者高山が起業した経緯を明らかにするには随分過去までさかのぼる必要があって、、しばらく高山の自分史を書くことにします。

                  おそらく2、3回でアイレップ創業にいきつく予定です。

                  若気の至り?で恥ずかしいことだらけですがそこはあたたかく流していただきたく(笑)


                  ・・・


                  子供のころ ヒーローは アントニオ猪木だった。

                  金曜夜8時といえばプロレスだった時代。
                  たまたま見たストロング小林戦の原爆固めに衝撃をうけ虜になり  ビルロビンソン戦残り1分の卍固めに絶叫し モハメドアリ戦の翌日学校でただひとり猪木を必死で擁護した。


                  プロレスラーにとどまらなかった猪木はアントンハイセルという事業をはじめていた。

                  さとうのしぼりかすをリサイクルしてエネルギーをうみだす事業。


                  「預金通帳をながめるだけの人生なんて何が面白い」


                  「俺の事業には世の中の環境問題を解決するという夢がある」


                  「使命感が男を大きくする」


                  猪木の著書「君よ苦しめそして生きよ」「苦しみの中からたちあげれ」にならぶ 子供心にあまりに刺激的な言葉の数々。


                  かっこいい。こんな生き方をしてみたい。プロレスラー猪木のファンをこえ 男猪木に惚れていた。


                  ちなみにその後アントンハイセルに新日本プロレスの儲けをつぎこむことで新日本プロレスではクーデターが発生したし 結局アントンハイセルも頓挫した。


                  猪木は経営者としては正しくなかったのかもしれない。


                  またその後もたびたびスキャンダルにみまわれた猪木に 複雑な思いを抱いたのも確かだ。


                  ただ あのとき 圧倒的な光を放っていた猪木の生き様の残像は 自分の心の奥底にそのまま焼き付いている。


                  亡き母に捧ぐ
                   に書いた 母からもらった言葉「人は人を幸せにするために生まれてくる」ととともに 私の生き方のコアを構成していることは間違いない。


                  ・・・


                  就職活動のころ。


                  「仕事=給料を得るために時間を切り売りするもの」という意識はまったくなかった。
                  会社を選ぶ前にそもそも自分はこの世で何を成し遂げたいのか。
                  志を立て それを達成するための就職先探しをすべきと考えていた。


                  何を成し遂げたいんだろう?
                  憧れの職業はなんだっけ? 
                  子供の頃は学校の先生。思春期がメディアのプロデューサー。
                  人の生き方になんらかのポジティブな影響を与えることに関心が強かった。


                  「人の自己実現を支援する事業を起業し活き活きした社会をつくる」
                  まず志を設定してみた。
                  そして就活スタート。教育事業やメディア関連にあたってみた。



                  教育業界は受験のテクニックを教えるところがほとんどでぴんとくる会社が1社もなかった。
                  激戦のメディア関連を突破するには覚悟も準備も足りなすぎ全滅、、ふりだしに戻った。



                  まだ学生の自分の視野には限りがある。ある程度幅広いスコープで志を設定した方がいいかもしれない。


                  「起業して社会に貢献する事業を連続的にうみだす」
                  志をやわらかく再設定した。


                  そして起業するためにどこがいいかという観点の会社選びを再開。
                  不動産のリクルートコスモス(現在のコスモスイニシア)に出会う。


                  当時のリクルートグループには 起業家予備軍が結集していた。ネット・ベンチャー界隈で多くのリクルートOBが活躍していることはあらためて説明するまでもない。早期にマネジメントへの登用のチャンスがあり営業力を鍛えることもできる。起業力をつけるには絶好の環境だった。


                  不動産業に特に興味があったわけではない。
                  集まってくる人やリクルートグループの空気に魅力があった
                  内定者全員が集まる旅行で出会った個性豊かな面々には衝撃をうけた。
                  一緒に働き刺激しあいたいと思った。
                  (人数が多く直接話したことはなかったが元USEN宇野さん 元インテリジェンス鎌田さんらがたしか同期)


                  しかし 内定者インターンをやるたびに 違和感を感じはじめる。
                  どうやら事業への興味・関心レベルが低いことが自分にとって致命的だったようだ。
                  起業力をつけるという目的だけでは モチベーションがあがらない。
                  内定者がみんな勉強して宅建の資格をとっていく傍らで「これでいいのかな」と迷う日々が続いた。


                  結局単位が足りず留年することになる。留年しても1年コスモス社でアルバイトして1年後の入社を目指すという選択肢はあったが、、リセットして就職活動を再開することに決めた。



                  ・・・



                  2回目の就職活動でリクルートグループで人材紹介業を行うリクルート人材センター(通称RJC 現在のリクルートエージェント)に出会う。


                  中途採用を通じて企業の成長を支援し 転職希望者の自己実現を支援する人材紹介業。
                  自分の興味・関心に合致する事業だし かつリクルートグループ。
                  起業力がつく環境であることはコスモス社と同じだった。


                  2年かかったが自分にとってベストの就職先を選ぶことができた。
                  RJCで 人材紹介業で社会に貢献しながら自分を鍛え いずれ起業するぞ。
                  それにはまず営業力をつけなくては。
                  数字がはっきりとする競争環境の中に身を置きとことん鍛えたい。これは譲れない。

                  「営業部門に配属していただければ血尿がでるまで働きます」

                  人事に手紙を書いた。

                  89年4月 配属は希望どおり、営業部門だった。

                  続く


                  アイレップ2011年9月期決算発表

                  0

                    アイレップの2011年9月期決算発表しました。

                    https://www.release.tdnet.info/inbs/140120111031035556.pdf

                    売上116.6%増加 営業利益86.3%増加 経常利益89.5%増加 当期利益147.5%増加。

                    昨年末DAC社のTOBによりDACグループ入りし 今年1月からレリバンシープラスを当社完全子会社化。新生アイレップがスタートして最初の決算は上方修正数字をさらに上回る形でしめることができました。

                    まあ売上が倍増しているのはレリバンシープラスを完全子会社化してDAC経由の代理店リスティング売上が計上されることになった「買収効果」が大きいのは確かです。

                    一方 数年前コンペで負けた案件の複数のお客様から「あまり運用がうまくいってないので再度コンペするからアイレップさんも参加して」とお声がけいただき 今度は運用力を評価いただいて勝つことが続き・・・直販も非常に好調でした。

                    そして急速に増えた案件を現場のメンバーが必死でこなしてくれました。
                    新たな採用による戦力投下が十分でない中 身を削って頑張ってくれたメンバーのみなさん、本当にご苦労さまでした。



                    また取締役の任期を1年にする予定です(年末の株主総会にて決議)。

                    http://ir.irep.co.jp/library/pdf/11111402.pdf

                    経営環境の変化に迅速に対応できる機動的な経営体制の構築が目的です。

                    もう少しかみくだくと サイバーさんのCA8と狙いは似ていて 強制的に何人入れ替えるとまではしないものの 役員の新陳代謝を促進すべく入れ替え機会を増やすということ。

                    昨年にくらべ規模が倍となり またこれだけ経営環境の変化が激しいと・・・経営ボードに求められる要素も変わります。

                    これからの成長ステージに最適な役員構成にする。そして若手に機会を与える。


                    是非当社社員のみなさんにはチャンスととらえてもらいたく。





















                    亡き母に捧ぐ

                    0

                       11月4日 母が永眠した。享年78。長年住み慣れた神戸から兄家族にすぐ近い加古川の老人ホームに引越してわずか半月ばかり。孫に頻繁に会えて嬉しいと喜んでいた矢先のことだった。


                      葬儀で僧侶様が「人は必ず死ぬ。人の死から何をうけとるかが大切 」とおっしゃった。私は母の死から何をうけとればいいのだろう。。



                      一流大学へ行き一流企業に入ることが幸せという物語にまだ説得力があった時代。母は小学校2年生の私に 受験勉強して名門私立中学を目指すか、さもなくば明日からうさぎとびして野球選手目指すか と極端なニ択を迫った。3つ上の兄がすでに塾に通い私立目指して猛勉強していたし、野球選手になれるはずもなく私は 受験勉強する、と答えた。


                      人生でおそらく最も勉強し、幸運にも志望の私立中学に入学することができた。思春期になると一流大学から一流企業へというレールから無性にはみだしたくなった。親のステレオタイプな価値観に反発するよくありがちな反抗期だ。母はそんな自分の前に常に立ちはだかりレールからはずれることを許さず価値観はぶつかり続けた。


                      私は結局母が望む 難関の大学を浪人覚悟で目指すのではなく現役で合格圏に入っていた大学を受験し合格した。ただただ不毛な受験勉強に早く終止符を打ち自分の生き方を探したかった。


                      就職活動。将来起業する志を立てた私は起業力をつけるための就職先選びをしていた。母は銀行や商社など誰もが知る大企業を望んだ。高校の同級生が三井物産、大学の同期が住友銀行に決まったと聞くと羨ましがった。


                      「えーかげんにしてくれ。俺を自分の見栄の道具にするな。もうあんたの言いなりにはならんで!」


                      ひどい啖呵をきって一切親には相談せずリクルート人材センター (現在のリクルートエージェント) に就職を決めた。母はそんな自分との長年の価値観闘争で遂にあきらめたか おそらく時代の変化を感じたからか最後にはこころよく東京に送り出してくれた。


                      そして、、起業するときには なんら咎めることもなく、ただ私を信じて応援してくれた。


                      母は母なりに信念をもち 子供のためによかれと思い かく生きるべしという壁になった。私はそれに反発し壁を乗り越える過程で自我を形成していったように思う。



                      まだ小学校低学年のころ、母と道を歩いていて、ふと「人は何のためにうまれてくるの」 と聞いた。


                      母は 「人はね、人を幸せにするためにうまれてくるんだよ」 と答えた。


                      このときの情景と言葉が何故か脳裏に刻みこまれている。


                      人は自分が何者か知りたくて自己探求のために過去を振り返るとき、自分の原点になっている体験や言葉に出会う。


                      「人は人を幸せにするためにうまれてくる 」
                      人生ではじめて何故かぴんときた言葉。おかげで私は自分のミッションを定めることができた。


                      『世の中の問題を解決する仕組みをつくる』


                      まだ何ら成し遂げていないが我ながら素敵な、生涯追求する価値のあるミッションだ。


                      原点があの言葉でよかった。



                      母は何かあると 親に頼るな と言った。
                      自立することを厳しく求めた。
                      そして逆に自分も子供には頼らないしできるだけ周囲に迷惑をかけたくない、と。


                      5年前父が亡くなり母一人になってからも、滅多に神戸に帰らず近くに住む兄家族にまかせっきりな私に母は決して恨み言を言うことはなかった。


                      体調を崩したとき私が駆けつけると 「わざわざありがとう。心配かけてごめんね。疲れてない? 」と逆に気遣ってくれた。


                      容体が急変してからも「雅行は先週も東京から来てくれた。もうこなくていい。」 と言っていたらしい。


                      ぎりぎりまだ意識があるときに間に合って手を握ると 朦朧としながらも笑顔で 「わざわざごめんね。いい息子たちで幸せな人生やった。ありがとう 」と言ってくれた。


                      意識を失ってからは まるで徹夜で横にいた私を気遣うかのように  予想より早く、あっけなく 早朝息をひきとった。


                      兄が喪主挨拶で 「母は周囲に あのときこうしておけばよかったという後悔を差し挟む余地がなくなるくらい感謝の言葉を重ねてくれた」と話した。


                      最後まで周囲に負担や迷惑をかけたくない、何ら後悔させたくないという自分の美学を貫き通した死に姿は気高く美しかった。



                      自分の生き方をつくる時期に壁になって立ちはだかってくれた。


                      原点になる素晴らしい言葉をくれた。


                      その死に様からは自分の美学を貫く潔さや気高さを教えてくれた。


                      そして…一度きりの人生を  命をくれた。
                      愛してくれた。


                      お母さん
                      あなたから頂いたこの命を大切に
                      あらためて迷うことなく 『私自身を生ききる』覚悟ができました。
                      あなたの死から意味を確かにうけとりました。


                      本当にありがとう。
                      安らかに眠って下さい。


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